寂光山常照寺(じゃっこうざんじょうしょうじ)
寺格ー日蓮宗総本山身延山久遠寺直末。永代紫衣。
元和元年(1615)本阿弥光悦は、徳川家康より東西200間、南北7町の鷹峰の地を拝領し、
本阿弥一門とその家職につながる集団を引連れ移住しました。
元和2年、本阿弥光悦、光瑳親子は、同所に「法華の鎮所」を建立、
鷹峰に弘通していた寂照院日乾上人を招じてこれを捧げ、日乾上人はその鎮所を寂光山常照寺と号しました。
さらに日乾上人は常照寺に僧侶の学問所・鷹峰檀林を創設しました。
故に往時は常照講寺と呼ばれ、境内数万坪の中に、講堂、衆妙堂、玄義寮、妙見堂など三〇余棟の堂宇が甍を並、
数百人の学僧が集う鷹峰一帯の中心的アカデミーでした。
明治5年(1872)の学生発布により檀林制度は廃止されましたが、開山日乾上人の教えを精神的支柱として、
一器の水を一器に移すが如く法燈連綿として現住職瑞雲院日輝上人まで歴世485世を数えています。
光悦筆の「学室」、六牙日潮上人筆の「旃檀林」の扁額、光悦画の「日輪蓮乗」、
祖書研究の資料『録内啓蒙』等の板木、檀林関係の蔵書などの宝物が格護されています。
常照寺を開山した寂照院日乾上人は、同寺に檀林を創設することをはかり、本阿弥一族の外護を得て学舎を完成させました。
これが鷹峰檀林の創設です。
松ケ崎・求法院・東山・山科・鶏冠井の各檀林と共に日蓮宗関西六檀林の一つに数えられています。
寛永4年(1627)日乾上人は、心性院日遠上人の弟子智見院日暹上人を招いて開講しました。
故に日乾上人を檀林開祖、日暹上人を開講の初祖としています。
翌寛永5年日暹上人は身延山第26世として晋山したため、
日暹上人の俗弟立正院日揚上人(小西檀林第9世)を招いて第3世化主としました。
日暹上人が在檀1年で退檀したため、鷹峰檀林の整備はこの日揚上人によってなされました。
日揚上人は講堂・学寮等を造営し、檀林諸規則を定めるなど、檀林の整備に努める一方、
檀林学徒を山方(やまかた)と峰方(みねかた)の2つに分けて学問を奨励し、
また自ら『法華玄義』『法華文句』を初めて講義しました。
故に日揚上人をもって玄堂の初祖としています。
のち智見院日暹上人を峰方の祖、立正院日揚上人を山方の祖として仰ぎました。
次いで第8世化主に通明院日祥上人(京都鶏冠井檀林開祖)、第11世には寂遠院日通上人(飯高檀林化主、身延山第30世)、
第14世には勝光院日耀上人(水戸三昧堂檀林化主)など当代きっての碩学を迎えて学徒の教育に当たりました。
元禄元年(1688)には大門を、同9年には経蔵を建立し、更に学寮を増設するなどその施設は拡大されました。
明治期に入り、学生発布により檀林制度は廃止されましたが、
近世後期の文政年間の鷹峰檀林には、なお200有余の学徒を擁し教育がなされていました。
字は考順、号は寂照院。
日蓮宗総本山身延山久遠寺21世、常照寺開山、鷹峰檀林開祖。俗姓は塚本氏。
父は越前国(福井県)の士族でしたが、故あって若狭国小浜に移り、ここで生まれました。
永禄12年(1569)10歳で父を喪い、同地の長源寺日欽上人に就いて出家しました。
元亀2年(1571)12歳のときに師範日欽上人が寂したので母に従って京都に上り、本満寺日重上人に師事。
その後6年間にわたり、日重上人のもとで天台三大部を究め、次いで三井、南都に遊学して瑜伽・唯識・律などを学びました。
帰洛後、天正13年(1585)26歳の若さで、本圀寺の学室求法講院(六条檀林)の講主に迎えられ天台学を講じました。
同院で30歳以前に化主(能化)になった者はほかに例がなく、この一事からもその逸材たることを知ることができます。
天正16年に師範日重上人の譲りをうけて本満寺8世の法灯を継承しました。
慶長時代初期、摂津国(大阪府)能勢郡の能勢頼次が一族をあげて日乾上人に帰依しました。
この頃当地が旱魃となり、日乾上人に請雨法(雨乞い)を修してもらったところ効験著しく、
郷民もすべて信仰を寄せたといいます。
そこで頼次は山屋敷南北6町、東西5町(もと真言宗真光寺の廃寺跡)を日乾上人に寄進しました。
慶長5年(1600)3月、頼次はこの地に祖先多田満仲をまつり、
日乾上人の隠居所という名目で一庵を建て、覚樹庵と名付けました。
のちにこの庵室が発展して無漏山真如寺となりました。
慶長7年10月には、後陽成天皇の御下問に応じて『宗門綱格』を提出し、
本宗の宗旨を本尊・修行・本期の三段に分けて三大秘法を説き、師範日重上人の教学体系を明らかにしました。
皇后中和門院(近衛前子)も日乾上人に法を聴き、審問ことに厚く、紫方袍を贈ってその法恩に報いたといいます。
この年の冬、身延山久遠寺の山衆が日重上人を山主に迎えようと懇請しましたが固辞したので、
高弟の日乾上人を屈請して許されました。
時に日乾上人は本満寺山主で43歳でした。
身延に在ること1年、翌8年には辞して京都に帰りました。
慶長13年、常楽院日経上人の法論事件に当っては、辞理絶妙の告文一紙を幕府に捧げ本宗の危機を救っています。
翌14年には再び屈請されて身延山に再住しました。
身延在住六年、55歳で身延西谷の庵室に隠居しました。
徳川家康の側室養珠院は、駿府城艮位の鎮護として松野村にあった日持上人の遺跡を静岡に移し、
元和4年11月9日に開堂供養を行い、貞松山蓮永寺と号しました。
次いで日乾上人を招いて当山7世、中興の祖と仰ぎました。
寛永4年(1627)本阿弥光悦ら一門の熱烈な屈請をうけて京都洛北鷹峰に常照寺を開山し、
同寺に鷹峰檀林を開創しました。
このような特筆すべき化跡は宗門内外から高く評価され、
師範日重上人、法弟日遠上人と共に「宗門中興重乾遠三師」と崇敬されています。
寛永12年10月27日、76歳をもって京都本満寺で入寂し、遺言により鷹峰常照寺に葬られました。
著述には『宗門綱格』『宗旨雑記』『西谷名目条箇』『書捨草』『一筆草』『破奥記』『謗施受用論』『宗門大意』『延山宝物目録』
『法隆寺聞書』『華厳筆記』『要文集』『台当要文集』『三日講論議』『六物図聞書』『教誡律義抄』『四分戒本私記』『論議故実』
『妙経抄』『当家本尊事』『安国論私』『御書見聞』『元祖化導譜』『小善成仏』『法華和註大意』『円頓者秘訳』などがあります。
当山に永眠する二代目吉野太夫(本名松田徳子)は慶長11年(1606)3月3日京都で生れました。
父は西国の武士松田武右衛門です。
幼くして父と死別した徳子は六条三筋町の遊里に預けられました。
当時の遊里は名だたる文人茶人、公家大名が集う高級社交場で太夫はその主として絶大な力を持っていました。
自分のサロンに招く者は太夫自身が選び、
いかなる高位分限者でも一度太夫が首を横に振ればサロンへは一歩も上がれなかったほどでした。
それゆえ容色の美は言うに及ばず一流の文化芸能と、風雅な趣向を身につけていなければなりませんでした。
それは禿(かむろ)の頃からの厳しい躾と精進、それを貫く精神力に根ざしてこそ得られた位でもありました。
14歳の若さで2代目吉野太夫の名跡を継いだ徳子は、やがて「寛永三名妓・天下随一希代の太夫」と謳われ、
その名は遠く明国まで聞こえたといいます。
寛永4年8月、明の呉興李湘山が夢に見た吉野のことが忘れられず、その想いを詩に託しています。
日本曾聞芳野名 夢中髣髴覺猶驚
清容未見恨無極 空向海東數鳳行
日本に素晴らしい美人がいる。
吉野と云うそうだが夢にその姿を見て驚いた。
実に美しい。
一目でいいから会ってみたい。
海を隔てた東にあるというその国へ鳳が群れをなして渡って行く。
鳳よお願いだ、この想いを吉野に伝えて欲しい。
このように吉野太夫の名は多くの人々に知られ、
『色道大鏡』『畸人傳』『吉野傳』などに虚像実像を織り交ぜながら紹介されています。
これらを読んでみますと、才色兼備で情が厚かった吉野の人柄を偲ぶことができます。
菩提寺の住職として皆様に知っていただきたいのは、
吉野太夫の精神的バックボーンが「法華経への篤い信仰」だったということです。
吉野は、当山の開基檀越である本阿弥光悦を介して開山寂照院日乾上人に深く帰依しました。
日乾上人は総本山身延山久遠寺の住持を歴任するなど日蓮宗中興三師の一人に挙げられる碩学で、
吉野はしばしば当山に参り日乾上人の教化を受けました。
「法華経こそ女人成仏の印文也」と導かれた吉野は、闇に灯火を得た思いだったことでしょう。
その帰依の証として山門を寄進しました。
「吉野門」と呼ばれる朱塗りの山門です。
年齢僅かに23歳の時でした。
俗界と聖域を分かつ山門、吉野はこの門を潜る総ての人々が仏法に触れ、
法華経に導かれることを願ったに違いありません。
日乾上人から授かった法号(戒名)も「唱玄院妙蓮日性信女」とあります。
日蓮宗では、「南無妙法蓮華経」の題目を玄題と呼び、題目を唱えることが修行の中心です。
「唱玄院」の院号から吉野がお題目をよく唱えたことが伝わります。
また「妙蓮」とは蓮のことです。
蓮華はいわゆる「蓮華の四徳」が説かれる釈尊在世当時からの仏花です。
四徳の第1は「朝開暮閉」の徳です。蓮華は朝に花びらが開き、午後には閉じます。
花びらの開閉を4、5日繰り返しやがて散ります。
このことは氣の巡りに合わせ自然体に生きることを教えています。
第2は「一茎一華」の徳です。蓮華は、1本の茎に1つの華しか付けません。
無欲つまり少欲知足を教えています。第3は「華果同時」の徳です。
普通は花が散ってから果実ができますが、蓮は華と同時に果(種)ができます。
つまり原因と結果が同時に現れます。
信仰的に解釈すれば、題目を唱えた瞬間に成仏するという即身成仏の吉祥を教えています。
第4は「泥中生華」の徳です。
蓮は泥(煩悩)の中にあっても泥に染まることなく清浄な華(菩提)を咲かせます。
どんな世間悪にも染まらないで清く生きる事を教えています。
常にお題目を唱え蓮華の徳をもって生きた吉野太夫、
沼地にあっても泥に染まることなく清浄な華を咲かせる蓮のように一心に信仰を貫いた女性でした。